Masukそれから一週間、周子の生活は表面上、何も変わらなかった。
毎朝七時に起床し、いつも通り出社する。クライアントとのミーティング、企画書の作成、チームメンバーへの指示。完璧に仕事をこなす瀬川周子。
裕一とも、何度か会った。いつものレストランでディナー。いつものような会話。結婚式の話、新居の話、将来の計画。
すべてが、いつも通り。
でも、周子の内側では、何かが変わり始めていた。
それは、小さな亀裂のようなものだった。完璧に作り上げられた自分という器に、ひびが入っていく感覚。
そして、その亀裂から、抑圧されていた何かが漏れ出してくる。
金曜日の夜。周子はまた『Midnight Blue』を訪れていた。
もう三度目だった。理由はわからない。ただ、あの店に行けば、柊がいるかもしれない。そんな淡い期待を抱いて。
でも、今夜も柊の姿はなかった。
カウンターに座り、ジントニックを注文する。バーテンダーは、もう周子の顔を覚えていた。
「最近、よく来るね」
「......ええ」
「あの人を待ってるの? 冬木さん」
周子は驚いて顔を上げた。
「......なんで」
「わかるよ。あの人と話してから、君の目が変わった」
バーテンダーはグラスを磨きながら言った。
「忠告しておくけど、あの人には近づかない方がいい」
「どうしてですか」
「彼は、人を壊すのが好きなんだ。特に、君みたいなタイプの女性を」
「......私みたいな」
「完璧主義者。自分を厳しくコントロールしている人。そういう人が壊れる様子を見るのが、彼の趣味なんだ」
バーテンダーの言葉は、柊自身が言ったことと一致していた。
「わかっています」
周子は静かに答えた。
「でも、止められないんです」
「......そうか」
バーテンダーは悲しそうな目で周子を見た。
「君で三人目だ」
「え?」
「冬木さんに惹かれて、壊された女性。君で三人目」
周子の手が震えた。
「一人目は......知ってるんだ。雪村遥さん。彼女はこの店の常連だった。綺麗な人だった。でも、冬木さんと出会ってから、どんどん変わっていった」
「......」
「最後に見たとき、彼女はもう別人だった。目に光がなくて、人形みたいだった。そして、一ヶ月後に死んだ」
周子は息が詰まりそうになった。
「二人目は、去年。橘美咲さん。彼女も、君と同じようなキャリアウーマンだった。でも、冬木さんと関わってから、仕事も辞めて、家族とも縁を切って......今は精神病院に入院してる」
「......なんで、止めなかったんですか」
「止めようとしたよ。でも、二人とも聞かなかった。君と同じように、『わかっています』と言って、彼のもとへ行った」
バーテンダーはため息をついた。
「だから、君にも言っておく。今ならまだ間に合う。彼から離れた方がいい」
周子はグラスを見つめた。
氷が溶けて、ジントニックが薄まっている。
「......もう、遅いんです」
「何?」
「私は、もう柊から離れられない」
その時、店のドアが開いた。
柊だった。
彼は周子を見つけると、微笑んだ。
「待たせたね」
バーテンダーは苦々しい表情で、柊を見た。
「冬木さん......」
「いつものを」
柊は周子の隣に座った。
「また来てくれたんだ」
「......ええ」
「嬉しいよ」
柊は周子の手を取った。その手は冷たかった。
「今夜は、特別な場所に連れて行く」
「どこですか」
「僕のアトリエ」
「アトリエ?」
「ああ。僕の『作品』を見せたい」
周子の胸騒ぎが強くなった。でも、拒否する気にはなれなかった。
柊のアトリエは、都心から離れた倉庫街にあった。
古い煉瓦造りの建物。錆びた鉄の扉。人気のない路地。
「ここ、ですか」
「ああ」
柊は扉を開けた。中は真っ暗だった。
スイッチを入れると、照明が灯る。
周子は息を呑んだ。
広い空間の壁一面に、写真が貼られていた。無数の写真。
それらはすべて、女性の写真だった。
笑顔の写真。泣いている写真。苦しんでいる写真。絶望している写真。
「これは......」
「僕の作品だよ」
柊は誇らしげに言った。
「彼女たちは、僕が『完成』させた女性たちだ」
周子は近づいて、写真を見た。
一人の女性の連続写真。最初は明るい笑顔。でも、次第に表情が変わっていく。不安、恐怖、絶望。そして、最後は虚ろな目。
「雪村遥」
柊が指差した写真。美しい黒髪の女性。でも、その目は死んでいた。
「彼女は、僕の最初の『マスターピース』だった」
「......あなた、サイコパスなんですか」
周子は震える声で尋ねた。
「さあね。そういうラベルを貼りたいなら、どうぞ」
柊は肩をすくめた。
「でも、僕は自分を芸術家だと思ってる。人間という素材を使って、作品を作る芸術家」
「人間は、素材じゃありません」
「君はそう思う? でも、僕にとっては、人間も他の素材と変わらない」
柊は周子を抱き寄せた。
「君も、僕の作品になる」
「......いや」
「嘘だね。君は、なりたがってる」
柊の唇が、周子の首筋に触れた。
「君の完璧な姿を、少しずつ壊していく。そして、最後には、君だけの美しさを完成させる」
「それは、破滅でしょう」
「破滅も、一つの完成形だよ」
周子は柊を押し退けようとした。でも、力が入らなかった。
「怖い?」
「......ええ」
「でも、興奮してる」
「......」
「君の身体は、正直だ」
柊は周子を壁に押し付けた。背後には、無数の女性たちの写真。
「ここで、君を抱きたい」
「......やめて」
「嫌なら、逃げればいい」
でも、周子は逃げなかった。
それどころか、自分から柊にキスをした。
気がつくと、周子はアトリエの床に倒れていた。
柊は離れた場所で、カメラを構えていた。
「動かないで」
シャッター音。
「完璧だ」
周子は自分の姿を想像した。乱れた服。汗で濡れた髪。虚ろな目。
完璧な瀬川周子は、もうここにはいない。
「君は、美しいよ」
柊は微笑んだ。
「壊れかけの君は、完璧だった君よりも、ずっと美しい」
周子は涙が溢れてくるのを感じた。
でも、それは悲しみの涙ではなかった。
何か、抑圧されていたものが解放される感覚。
「......私、どうなってしまうんでしょう」
「さあね。でも、楽しみだろう?」
周子は答えられなかった。
でも、心の奥底で、小さな声が囁いていた。
楽しみだ
二人は、崖の縁に立った。 下には、暗い海が広がっている。 波の音だけが、静かに響いている。「怖いか?」 柊が尋ねた。「......ええ。でも、あなたがいるから、大丈夫」 周子は、柊を見つめた。「これが、私たちの愛の終わり方なのね」「ああ」 柊は、周子を抱きしめた。「君と出会えて、よかった」「......私も」 周子は、涙を流した。「あなたと出会わなければ、私は完璧な人生を送っていたかもしれない。でも、本当の自分を知ることはなかった」「......」「あなたは、私を壊した。でも、同時に、本当の私を見つけてくれた」 周子は、柊にキスをした。「ありがとう」 柊は、微笑んだ。「じゃあ、行こう」「......ええ」 二人は、手を繋いだ。 そして――。 その時、周子は気づいた。 これは、間違っている 自分は、死にたいわけではない。 ただ、柊と一緒にいたいだけ。 でも、それは死ぬことではない。「......待って」 周子は、柊の手を引いた。「やっぱり、やめる」「え?」 柊は、驚いた表情を見せた。「私、死にたくない」「......なんで」「生きたい。あなたと、一緒に」 周子は、柊を見つめた。「死ぬことは、簡単よ。でも、生きることの方が、難しい」「......」「一緒に、生きましょう。この歪んだ愛のまま」 柊は、長い沈黙の後、笑った。「......君は、面白いね」「え?」「死のうとしていたのに、最後の最後で生きることを選ぶなんて」 柊は、周子を抱きしめた
海辺の町から戻った後、周子は大きな決断をした。 母に会うことにした。 柊は、最初は反対した。「なんで、今更」「......けじめをつけたい」「けじめ?」「ええ。最後に、母に会っておきたい」 柊は、長い沈黙の後、頷いた。「わかった。でも、僕も一緒に行く」「......ええ」 周子の実家は、郊外の閑静な住宅街にあった。 母は、周子を見て驚いた。「周子......!」 そして、周子の隣にいる柊を見て、警戒の色を浮かべた。「......この方は」「冬木柊です。周子さんの恋人です」 柊は丁寧に挨拶した。 母は、複雑な表情で二人を家に招き入れた。 リビングで、三人は向かい合って座った。 母は、周子をじっと見つめていた。「......痩せたわね」「......うん」「ちゃんと、食べてる?」「食べてるわ」 母は、柊に視線を移した。「冬木さん、あなたは周子とどういう関係なんですか」「恋人です」「......裕一君と別れた理由は、あなたですか」「そうです」 柊は、隠そうともしなかった。 母の表情が、厳しくなった。「周子を、幸せにしてくれるんですか」「......幸せの定義によります」「定義......?」「一般的な幸せを、僕は周子に与えられません。でも、周子が本当に求めているものは、与えられます」 母は、周子を見た。「周子、あなた本当にこの人でいいの?」 周子は、頷いた。「......ええ」「なんで? あなたには、もっといい未来があったはずよ。裕一君との結婚、仕事での成功」「......それは、私が求めていた未来じゃなかっ
雪村凛の訪問から一週間。周子の心は、揺れ続けていた。 凛の言葉が、頭から離れない。 冬木さんといる限り、あなたは破滅する それは、真実かもしれない。 でも、破滅することが、本当に悪いことなのだろうか。 周子は、もう「普通の幸せ」を求めていなかった。 完璧な人生、安定した未来。それらは、もう魅力的に思えない。 むしろ、この危うい関係の方が、生きている実感がある。 ある夜、柊が言った。「明日、特別な場所に連れて行く」「......どこに」「サプライズだ」 柊は神秘的に微笑んだ。「でも、一つだけ約束してほしい」「何?」「何を見ても、僕から離れないこと」 周子の胸騒ぎが強くなった。「......何を見せるつもり?」「君が知るべきこと」 翌日、柊は周子を車に乗せて、都心を離れた。 目的地は、海沿いの町だった。 古い漁村。寂れた雰囲気。「ここは......」「僕が育った場所だ」 柊は車を降りた。 二人は、海沿いの道を歩いた。 冷たい風が、頬を撫でる。波の音が、静かに響く。「ここに、連れてきたのは君が初めてだ」「......なんで」「君に、すべてを知ってほしいから」 柊は、古い建物の前で止まった。 それは、精神病院だった。「母が、入院している」 周子は驚いた。「お母さん、まだ生きてるの?」「ああ。もう二十年以上、ここにいる」 柊は病院の中に入った。 周子もついていく。 廊下は薄暗く、消毒薬の匂いが充満していた。 柊は、奥の個室のドアをノックした。「母さん、僕だ」 返事はなかった。
柊との生活が始まって三ヶ月。周子の世界は、完全に柊だけになっていた。 外出するのは、柊と一緒のときだけ。一人で出かけることは、許されなかった。 携帯電話も、柊に管理されていた。誰かから連絡が来ると、柊がチェックする。 それは、明らかに異常だった。 でも、周子は受け入れていた。 むしろ、この狭い世界が心地よかった。考える必要がない。決断する必要がない。すべて、柊が決めてくれる。 ただ、夜になると、不安が襲ってきた。 これは、本当に愛なのだろうか。 それとも、ただの共依存なのだろうか。 ある日、柊が外出すると言った。「今日は、一人で出かけてくる」「......どこに」「仕事だよ」 柊の「仕事」について、周子は詳しく知らなかった。「いつ帰ってくる?」「夜には戻る」 柊は周子の頬にキスをした。「いい子で待っててね」「......ええ」 柊が出て行った後、周子は一人きりになった。 広いマンション。でも、柊がいないと、まるで牢獄のように感じる。 周子は窓から外を眺めた。 東京の街。無数の人々が行き交っている。 あの中に、かつての自分もいた。仕事に追われ、目標に向かって走り続けていた自分。 今の自分とは、まるで別人だ。 私は、何をしているんだろう ふと、そんな疑問が湧いてきた。 でも、すぐに頭を振った。 考えてはいけない。考え始めたら、すべてが崩れてしまう。 その時、インターホンが鳴った。 誰だろう。宅配便だろうか。 モニターを確認すると、見知らぬ女性が立っていた。 三十代くらい。落ち着いた雰囲気。 周子は、インターホンに出た。「はい」『あの、冬木柊さんのお宅ですか?』
柊との関係が深まるにつれ、周子の生活はさらに変質していった。 まず、仕事を辞めた。 というより、辞めざるを得なかった。 柊は、周子の時間のすべてを要求した。いつでも連絡に応じること。いつでも会えるようにすること。仕事は、その妨げになる。「仕事なんて、辞めればいい」 柊は簡単に言った。「でも、生活費が......」「僕が養う」「......」「君には、僕だけに集中してほしい」 周子は抵抗しようとした。でも、すでに仕事でのパフォーマンスは最悪だった。このままでは、クビになるのは時間の問題だった。 だから、周子は自分から退職届を出した。 上司は驚いた。「瀬川、どうしたんだ。君は将来有望だったのに」「......すみません。個人的な理由で」「彼氏に反対されたのか?」 周子は答えなかった。「......そうか。残念だ」 こうして、周子は六年間勤めた会社を去った。 次に失ったのは、友人だった。 美和からの連絡は、最初は頻繁だった。「周子、最近どう?」「元気よ」「会おうよ。ランチでも」「......ごめん、ちょっと予定が」 断り続けるうちに、美和からの連絡は減っていった。 他の友人たちも、同じだった。 周子は、意図的に距離を置いていた。友人たちと会えば、柊のことを質問される。そして、柊との関係を説明できない。 いや、説明したくなかった。 友人たちは、きっと反対するだろう。「その男、危ないよ」「別れた方がいい」と言うだろう。 でも、周子はもう、柊から離れられなかった。 だから、友人を失う方を選んだ。 そして、家族との関係も壊れていった。 母からの電話。「周子、元気にしてる?」「......ええ」
婚約解消から二週間。周子の生活は、完全に変わっていた。 仕事には行っているが、以前のようなパフォーマンスは出せなくなった。企画書の提出期限を守れなくなり、ミーティングでの発言も減った。 上司から注意を受けた。「瀬川、最近どうした? 君らしくない」「......すみません」「何かあったのか? プライベートで問題でも?」「大丈夫です。ちょっと、疲れているだけです」 嘘だった。 疲れているのは確かだが、問題はそれだけではなかった。 周子の頭の中は、常に柊のことで占められていた。 柊からの連絡を待つ。来なければ不安になる。来れば、どんな時間でも駆けつける。 これは、もう恋ではなかった。依存症だった。 ある日、親友の佐藤美和が周子のマンションを訪れた。「周子、ちょっと話がある」 美和は深刻な表情だった。「裕一さんから聞いたわ。婚約解消したって」「......ええ」「なんで? あんなに幸せそうだったのに」 周子は答えられなかった。「他に好きな人ができたの?」「......まあ、そんなところ」「その人、どんな人?」「......言えない」「なんで?」「言ったら、あなたは絶対に反対するから」 美和は周子の肩を掴んだ。「周子、あなたおかしいわよ。最近、連絡してもろくに返事もくれないし、会おうって言っても断るし」「......ごめん」「ごめんじゃないわよ! あなた、何かに取り憑かれてるみたい」 美和の言葉は、的を射ていた。 取り憑かれている。柊という存在に。「心配しないで。私は、大丈夫だから」「大丈夫に見えないわよ。痩せたし、顔色も悪い」 美和は涙ぐんでいた。「お願い、その人と別れて。あなたを不幸にする人なら、一緒にいちゃダメよ」