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第二章:禁断の扉

Penulis: 佐薙真琴
last update Terakhir Diperbarui: 2025-12-03 18:58:00

 それから一週間、周子の生活は表面上、何も変わらなかった。

 毎朝七時に起床し、いつも通り出社する。クライアントとのミーティング、企画書の作成、チームメンバーへの指示。完璧に仕事をこなす瀬川周子。

 裕一とも、何度か会った。いつものレストランでディナー。いつものような会話。結婚式の話、新居の話、将来の計画。

 すべてが、いつも通り。

 でも、周子の内側では、何かが変わり始めていた。

 それは、小さな亀裂のようなものだった。完璧に作り上げられた自分という器に、ひびが入っていく感覚。

 そして、その亀裂から、抑圧されていた何かが漏れ出してくる。


 金曜日の夜。周子はまた『Midnight Blue』を訪れていた。

 もう三度目だった。理由はわからない。ただ、あの店に行けば、柊がいるかもしれない。そんな淡い期待を抱いて。

 でも、今夜も柊の姿はなかった。

 カウンターに座り、ジントニックを注文する。バーテンダーは、もう周子の顔を覚えていた。

「最近、よく来るね」

「......ええ」

「あの人を待ってるの? 冬木さん」

 周子は驚いて顔を上げた。

「......なんで」

「わかるよ。あの人と話してから、君の目が変わった」

 バーテンダーはグラスを磨きながら言った。

「忠告しておくけど、あの人には近づかない方がいい」

「どうしてですか」

「彼は、人を壊すのが好きなんだ。特に、君みたいなタイプの女性を」

「......私みたいな」

「完璧主義者。自分を厳しくコントロールしている人。そういう人が壊れる様子を見るのが、彼の趣味なんだ」

 バーテンダーの言葉は、柊自身が言ったことと一致していた。

「わかっています」

 周子は静かに答えた。

「でも、止められないんです」

「......そうか」

 バーテンダーは悲しそうな目で周子を見た。

「君で三人目だ」

「え?」

「冬木さんに惹かれて、壊された女性。君で三人目」

 周子の手が震えた。

「一人目は......知ってるんだ。雪村遥さん。彼女はこの店の常連だった。綺麗な人だった。でも、冬木さんと出会ってから、どんどん変わっていった」

「......」

「最後に見たとき、彼女はもう別人だった。目に光がなくて、人形みたいだった。そして、一ヶ月後に死んだ」

 周子は息が詰まりそうになった。

「二人目は、去年。橘美咲さん。彼女も、君と同じようなキャリアウーマンだった。でも、冬木さんと関わってから、仕事も辞めて、家族とも縁を切って......今は精神病院に入院してる」

「......なんで、止めなかったんですか」

「止めようとしたよ。でも、二人とも聞かなかった。君と同じように、『わかっています』と言って、彼のもとへ行った」

 バーテンダーはため息をついた。

「だから、君にも言っておく。今ならまだ間に合う。彼から離れた方がいい」

 周子はグラスを見つめた。

 氷が溶けて、ジントニックが薄まっている。

「......もう、遅いんです」

「何?」

「私は、もう柊から離れられない」


 その時、店のドアが開いた。

 柊だった。

 彼は周子を見つけると、微笑んだ。

「待たせたね」

 バーテンダーは苦々しい表情で、柊を見た。

「冬木さん......」

「いつものを」

 柊は周子の隣に座った。

「また来てくれたんだ」

「......ええ」

「嬉しいよ」

 柊は周子の手を取った。その手は冷たかった。

「今夜は、特別な場所に連れて行く」

「どこですか」

「僕のアトリエ」

「アトリエ?」

「ああ。僕の『作品』を見せたい」

 周子の胸騒ぎが強くなった。でも、拒否する気にはなれなかった。


 柊のアトリエは、都心から離れた倉庫街にあった。

 古い煉瓦造りの建物。錆びた鉄の扉。人気のない路地。

「ここ、ですか」

「ああ」

 柊は扉を開けた。中は真っ暗だった。

 スイッチを入れると、照明が灯る。

 周子は息を呑んだ。

 広い空間の壁一面に、写真が貼られていた。無数の写真。

 それらはすべて、女性の写真だった。

 笑顔の写真。泣いている写真。苦しんでいる写真。絶望している写真。

「これは......」

「僕の作品だよ」

 柊は誇らしげに言った。

「彼女たちは、僕が『完成』させた女性たちだ」

 周子は近づいて、写真を見た。

 一人の女性の連続写真。最初は明るい笑顔。でも、次第に表情が変わっていく。不安、恐怖、絶望。そして、最後は虚ろな目。

「雪村遥」

 柊が指差した写真。美しい黒髪の女性。でも、その目は死んでいた。

「彼女は、僕の最初の『マスターピース』だった」

「......あなた、サイコパスなんですか」

 周子は震える声で尋ねた。

「さあね。そういうラベルを貼りたいなら、どうぞ」

 柊は肩をすくめた。

「でも、僕は自分を芸術家だと思ってる。人間という素材を使って、作品を作る芸術家」

「人間は、素材じゃありません」

「君はそう思う? でも、僕にとっては、人間も他の素材と変わらない」

 柊は周子を抱き寄せた。

「君も、僕の作品になる」

「......いや」

「嘘だね。君は、なりたがってる」

 柊の唇が、周子の首筋に触れた。

「君の完璧な姿を、少しずつ壊していく。そして、最後には、君だけの美しさを完成させる」

「それは、破滅でしょう」

「破滅も、一つの完成形だよ」

 周子は柊を押し退けようとした。でも、力が入らなかった。

「怖い?」

「......ええ」

「でも、興奮してる」

「......」

「君の身体は、正直だ」

 柊は周子を壁に押し付けた。背後には、無数の女性たちの写真。

「ここで、君を抱きたい」

「......やめて」

「嫌なら、逃げればいい」

 でも、周子は逃げなかった。

 それどころか、自分から柊にキスをした。


 気がつくと、周子はアトリエの床に倒れていた。

 柊は離れた場所で、カメラを構えていた。

「動かないで」

 シャッター音。

「完璧だ」

 周子は自分の姿を想像した。乱れた服。汗で濡れた髪。虚ろな目。

 完璧な瀬川周子は、もうここにはいない。

「君は、美しいよ」

 柊は微笑んだ。

「壊れかけの君は、完璧だった君よりも、ずっと美しい」

 周子は涙が溢れてくるのを感じた。

 でも、それは悲しみの涙ではなかった。

 何か、抑圧されていたものが解放される感覚。

「......私、どうなってしまうんでしょう」

「さあね。でも、楽しみだろう?」

 周子は答えられなかった。

 でも、心の奥底で、小さな声が囁いていた。

 楽しみだ


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